このころ中国は、清朝の終わりごろで、清朝の力が中国全土に行き渡らず、いろいろな国々が中国への進出をおこなっていました。こうした中、1911年(明治44年)には、辛亥革命がおこり、1644年からおよそ260年あまり続いた清朝がたおされ、1912年(明治45年)1月1日には孫文が中華民国の成立を宣言しました。
1914年(大正3年)に、ヨーロッパを中心とする第1次世界大戦が起こると、日本も連合国の一つとして大戦に参加しました。中華民国の中で、ドイツが権利を持っていた山東省青島を攻撃し、ドイツ軍を打ち破りました。
翌年の1915年(大正4年)には、大隈重信内閣が、中華民国に対して、@ドイツが山東省に持っていた権利を日本が引き継ぐこと、A関東州を借りる期間を延ばすこと、B南満州鉄道の権利をのばすことなど、対華21ヶ条の要求をおこないました。この要求は、第1次世界大戦のすきをついて、日本が中華民国に対しておこなった要求で、世界の中から日本に対するひはんが高まり、中華民国国内でも反対運動がおきましたが、日本側は5月7日に最終通告を中華民国側におこない、中華民国は5月9日に日本の要求を受け入れましたが、中華民国国民は、要求を受け入れた5月9日を、国恥記念日と呼んで、日本の強引なやり方を批判しました。
第1次世界大戦が終わり、1919年(大正9年)1月18日、日本も連合国の5大国の一つとしてパリ講和会議に出席しました。パリ講和会議では、日本の主張が認められ、山東省での日本の権利が認められ、国際連盟の常任理事国にもなりました。
しかし、中国国内では、日本に対する反日感情が高まり、学生デモや各地でストライキがおこりました。また世界の中でも、日本の中国に対するやり方が批判の的となり、1921年(大正11年)におこなわれたワシントン軍縮会議では、日本は山東省などの権利を手放しました。
しかし1918年(大正7年)〜21年(大正10年)まで、日本がロシアのシベリアに軍隊を出兵したり、また、日本の軍事力や国力が、世界各国の予想以上についたため、日本はこの後世界の中できびしい立場に立たされることになりました。 |